筆者である内野紀惠が11月から12月にかけて横浜と筑波で個展を開きました。
どんな展示だったの?と聞かれると説明するのが少し難しいのですが、来場者の方には自作の短編小説を読み進めながら会場内を歩き周り、同時に展示されている詩や写真を鑑賞してもらうという新しい展示方法に挑戦しました(小説を展示にするってとても難しかった!笑)。
のべ100人ほどの方に読んでもらい、初めての個展にしてはよく頑張った!(笑)
写真は現時点では載せられないのですが、小説と詩だけ、ポートフォリオとしてここに残させてください。
タイトな歩幅ですり減っていく人の影
土の匂いで幼かった記憶を取り戻し
金木犀の香りで息をすることを思い出す
車を出た2人は歩き出す。
向かいから知らない顔が歩いてくる。
「『愛』という言葉が男女の色恋でしか使われないのなら敢えては言わないけど、愛は何者からも独立したものだと思うから、僕は君を愛しているよ」
僕の知らない顔の人と瀬尾さんが一言二言話してまた別れる。
「瀬尾さんにとって愛ってなに?」
「愛っていうのはこれ以上細分化できない概念だから、他の言葉で説明してもチープになるばかりだ。それでも人は対話をし続けるべきだと思うけどね。」
僕の知らない顔、聞いても理解できない会話、僕にはわからないことが多すぎる。
無論、僕と瀬尾さんは恋人ではない。いつもよく面倒を見てくれて可愛がってくれているとでも言おうか・・・今は瀬尾さんの“買いものに付き合わせた礼”として、理由をつけてはよく瀬尾さんと食べに来る定食屋さんに向かっている。
「何にする?」
おそらく代金は出してもらうのだし、素直に食べたいものなんか出てこない、それに僕の好みを知られるのは恥ずかしいし、普段は食べない魚なんかを選んでしまう。
「焼き魚の定食で」
瀬尾さんは「じゃあ僕は鶏肉にするね」とさらっと言う。
「あんまり食べないよね」
「実は食欲というのが元々あんまりなくて・・・。人間の三大欲求のうち、多分一番優先度の低い欲求です、僕からしたら。」
そう言った直後に人間の三大欲求が食欲、睡眠欲、性欲で構成されていることに気付いて勝手に顔が赤くなった。
「そもそも、僕は人に食べているところを見られるのが本当に苦手なんです。あまりにもなまなましいというか、人間らしすぎる。人間は食べないと生きられないし、それと呼応して排泄しないと生きられない。その循環の一部でも本当は醸したくないんです。ただ、駅のホームにある蕎麦屋なんかで一人丼ぶりを掻き込む姿があれば、僕は目が離せなくなる。あまりに魅力的で見ずにはいられないんです。これが人間だって。」
「なら、もっと堂々と食べてもいいんじゃないか?」
「それとこれとは違うんです。」
「ふーん」と言って彼はこのうえなく上品に目の前の鶏肉を口に運ぶ。
この人くらい人間離れした所作が手に入るのなら、僕はこんなことに頭を悩ませることもないんだけどな、と考えながら僕は可能な限り丁寧に食事を進めた。
太陽がおめかしする時間に私は化粧を落として眠る
姿を現したばかりの月は青白く、落ちる夕日はめらめらと温かくて、そこでこの世界からさよならをすることの美しさに満足を覚えてしまった
「太陽光は光が届く距離が短いと青みがかり、長いと赤みがかる。だから昼の空は青く、夕暮れ時は赤い。高緯度の国では青が映え、低緯度の国では赤が映える。だから伝統色は国や地域によって異なるんだ。」
「へぇ・・・中国の赤とか?」
「ギリシャの真っ白な壁に真っ青の屋根とかもね。面白いのが、光で見える色は変わるから、光をコントロールすると見え方も意図的に変えることができるんだ。」
「世界をそんなふうに操作するのは、愚かな人間だけだと思う。」
「そう思うかもしれない。けど、これは人間に限らないよ。美味しそうに見せるためにみかんの包装に赤いネットを使うことと、ミツバチをおびき寄せるために鮮やかで美しくある花は本質的に同じなんだ。だけど、これが生きるためのことだとしたら、そのことそのものが美しいとは思わない?」
「・・・それを瀬尾さんはどう思うの。」
「どう思う・・・言われなければ白と黒だけの世界であるはずの囲碁でも、石の大きさが白と黒とで本当は異なるなんて聞いたときには皮肉な話だなと思った。」
「それが答え?」
「今は僕の意見というより、事実の確認をしているんだよ。話を戻すと人は色を利用することもできるし色に騙されることもある。それは人に知覚という能力が与えられているからこその宿命なんだ。しかし、最も重要なことは、色っていうのは光なのであって、色そのものは本当は実存しないということだ。僕たちは光、つまり反射された波長を見ているに過ぎないんだけど、人は色をもって憎んだり羨んだりいろんな感情を抱く・・・ところで君は何色が好き?」
「実存しないものに心が動いたりするのって、なんだかそれこそ愚かというか、無意味に感じませんか?」
瀬尾さんは感心したようにうなづきながら歩調を緩める。
「そうかもしれない。確かに色によって引き起こされる偏見や差別は愚かだと思うけど、倫理を抜きに言うとそれもある意味人間らしい部分ではあるし、僕はそれを愛しいと思う。それに、そもそも惹かれてしまうものに理由なんてないんだ・・・ちなみに君のオーラは青色だよ。」
いきなりすぎる話題にか、オーラが見えるということにか、それとも僕なんかにオーラがあったことに、驚きが隠せない。瀬尾さんはこの反応に慣れているのだろう。
「みんなあるんだよ。それに、みんな本当は見ることができるんだ。練習すれば、ね。ほら、人とその人を取り巻くこの空間との境界線をじーっと見ていたら、見えてくるはずだよ。」
そう言われて瀬尾さんの肩あたりの曲線をじっと見つめてはみたものの、何より彼を見つめている僕を瀬尾さんに見つめ返されるこの時間に、僕はどんな顔をすればいいのかわからなくて戸惑ってしまった。
「よくわからないけど、瀬尾さんがそう言うなら、僕は青が好き。」
「はは、僕も青は好きだよ。」
帰ってから瀬尾さんに借りた西田幾多郎の『善の研究』を読む。
“純粋経験というのは、実在を経験することだ。つまり経験しなければ真理には到達できない。実在は現実そのままのものでなければならない。記号として見るのではなく、そのものを観察すること。真理を見えないままにしてはならない。 全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知る、ことである。純粋経験とは、それに「ついて」知ろうとするのではなく、それ「を」知ろうとすることである。”
もはや視覚さえ信用できないこの世界で、何が実存し、何を僕たちは認識するのだろうか。
昼寝から飛び起きたひと
あわてて夕焼けで光合成する植物みたいで
ひとまず愛してると言い聞かせて夜
昼寝をしていたら突然瀬尾さんから電話があって呼ばれた近くの洋食屋さんに一人で向かう。そこにはいつもと少し違った瀬尾さんと、前にすれ違ったことのある女の人が一人。格好からしておそらくここのスタッフなのだろう。
瀬尾さんのいるテーブルの上には色々と散らかっている。飲みかけのボトル、食べかけのチーズ、口元を拭いた紙くず、外された時計・・・。もちろん綺麗とは言えない光景だが、僕にはまだ再現することのできない光景であり、そこには異様な眩しさがある。
「じゃあ、迎えがきたから帰るよ。」
「ええ。またきてね。」
「ほい」
彼が財布を出すそぶりを見せると、いいのよと言って微笑む。それに彼も何かを言って微笑み返す。
「君、若いのね。いくつ?」
「実は、今日二十歳になります。」
「今日って日は本当にめでたいのね。ちょっと待ってててね」
そう言って彼女は嬉しそうにどこかに行ってしまった。奥から「炭酸は飲める?」と言う声がする。僕は「飲めます」と、大声で言うにはどこか違和感を感じながらそう答えた。
しばらくして彼女は奥から持ち帰り用のホットコーヒーを持って帰ってきた。ここは昼になるとカフェになるらしい。しかし、手に取るとそれは冷たい。やはり、これはコーヒーではない。
「・・・これはなんですか?」
「ふふ。いいお酒。最初に飲むお酒はいいものがいいからね。昨日開けたものだから炭酸が弱くなっているかもしれないけど。」
「ありがとうございます。確かに、初めてはいいものがいいのかもしれない。」
「そうよ。私の“初めて”はあんまり“いいもの”ではなかったけどね。」
「そうなんですか?」
「はいはい、もういいね。帰ろう。」そう言う瀬尾さんに置いていかれぬよう、そそくさとその場を立ち去った。帰り道にホットコーヒーの入れもの独特の飲み口に戸惑いながらも、その“いいお酒”を口に注いだ。味がどうこうというよりも、独特の匂いにやられる。結局ほとんどは瀬尾さんに飲んでもらった。
「君といるといいことがある。」
「そうなんですか?」
「例えば歩きながらシャンパンが飲める。」
「ははは、それは今日だけですよ。」
「今日に限って、なりゆき的に僕は大人の象徴的な物を飲まされているけど、普段は君から若さの象徴を飲んでいるようなものだ。まあ、これは本当に“いいもの”だから、僕と安いお酒が飲めなくなることに関しては“いいこと”ではないけどね。」といって瀬尾さんは手にしているコップを軽く僕に見せてくる。僕にはお酒というものがよくわからないから気の利いた返しもできない。でも、一緒に笑うだけでいいような気がしている。彼は“いいもの”を飲んでから少し顔が赤い。
「いい友達ですね。」
「ああ、いい友達だ。」
「実際のところ、僕にはいい友達も悪い友達もいるんだ。」
「“片手で絞った雑多な思い出をアルバムにして誕生日に送るだけの友情”みたいな?」
「何それ」
「僕が前に書いた詩の一節。」
「嘘だ」
「うん、嘘」
瀬尾さんって嘘もつくんだ。
「瀬尾さんは神様を信じてる?」
「と言うと?」
「いや、なんか、何かを信じていつも話をしているように思えて。」
「うーん・・・。これを知ってしまうと、もう今までのようには生きられないよ。それに、これは簡単には教えられないんだ。僕はこれを自負しているし、誰にも汚されたくないんだ」
「・・・と言うと?」
「神様はいるんだ。」
僕が前に借りたいと言っていた本を借りるために瀬尾さんの家に寄ることにした。
「君に、見せたいものがある。」
「・・・何?」
「そろそろ“時”がくる。僕は今から真っ暗な闇の中に落とされるんだ。」
「そしたらどうなるの?」
「まず頭がどうしようもなく熱くなる。どうしようもなくなってリストカットしてしまうこともある。」
そう言って腕を見せてくれた。
「死にたいなんて思ってないんだ、ただ生きている実感がほしくなる。これを誰かに見せるのは初めてなんだ。でも、誰かがいてくれた方がいいかもしれない。君が待っていることを思い出して早めに抜け出すからさ。」
「どこから?」
「闇の中から。いや、本当はそれがどこなのかわからないんだ。ただ、僕は今から闇の中に落とされる。でもある周期で氷の張った水面に穴が空いたように、スッと抜け出せる隙があるんだ。僕はそこから抜け出さないといけない。それを逃すとまたもう一度その“隙”が見えてくるまで待つしかないんだ。」
「僕はどうすればいいの?」
「見ていてもいいし、本を読んでいてもいい、ただ、待っていて欲しい。」
「わかった。」
その“時”がきた。
スッと彼が立ち上がった。
メモを取り出して何かを書いている。いつもは丁寧な文字を書くのに、もう文字なんて体系だったものは書いていない。
“畏敬”というのはうまく言ったもので、本当に尊いものは怖いのだ。直視することすらできない。僕は先ほど借りた本を読むふりをして、伏し目がちに見る。
音を立てていいのかもわからない。声をかけたら“戻ってくる”のだろうか。ただ、そんなことをしたらこの空間ごと歪んでしまいそうで、そんなこともできる訳がない。
目の前で断絶された場所にいるさっきまで知っていた人。
初めて見る光景に心臓が音もなく激しく訴えてくる。
血が流れるようなことがあったら、と心構えだけはしておく。ただ、そんなことに何の意味があるのか。一度血管から流れ出た血は止めることができても、もう元の場所に戻すことはできないんだ。
1時間くらい経った。ふと彼がこっちを見て微笑む。
「ただいま」
終わったんだ。彼は帰ってきた。
「おかえり」そう一言言った。
いつの間にか汗だくになっている彼が顔を洗いに行っている間に、こっそりノートを覗いてみる。今見るしかなかったんだ。でも、そこに書かれていたものは僕の目を通して見たところで、理解できるはずもなかった。瀬尾さんがどこに行って何をしていたのかはわからない。けど、自分のいるはずの世界とは違うところにいたことだけはわかる。
それと、瀬尾さんがさりげなく微笑んだようにみえた時、僕は心のどこかで安心していた。それは、彼が泣いていたのかさえ分からない僕がどこまでも鈍感で、ハッピーエンドしか信じられなくて、最後の笑顔にいつも引っかかってしまう、どうしようもなくロマンチストであるということだった。
唯一の薬は
茹でたスパイスみたいなもので
糠に釘みたいな昼寝
高まる期待に引っかかった僕は
読み間違えたまま音読を続けた
それ以来薬はうんと効かないまま
「君は青が好きと言ったね。」
「はい、一応。」
「それは、“選んだから好きになった”に近い。」
「“美しさと心地よさはほとんどが同義である”」
「その通り。そして、“美しさとは一種の正義である”」
「慣れているということは脳が処理しやすいということを意味するし、それはつまり心地いい、好ましいと脳によって認識される、と前々回に借りた本に書いてありました。」
「君を試していたわけではないんだけど、まぁそういうことだ。美学というのはつまりは善悪の話であるし、右利きの多いこの世界では“Right”が“正しい”という意味だとされている。」
「前に僕のオーラが青色だと言ってくれたけど、瀬尾さんはオーラが見えるんですね。」
「そうだね。色で表現していいものなのかはわからないけど、それが一番分かりやすいのかもしれない。」
「僕にはオーラなんて見えないからわからないけど、オーラが人から発されている電磁波のようなものなら、それを光の波長で見える色をもって表現することって、あながち間違っていないのかもしれないですね。」
「そうだね。確かに人は波長が合う合わないとよく言う。」
「僕のオーラは今も青いんですか。」
「うん、でも少し弱くなったね」
恥ずかしいような、疑いたくなるような、どう反応すればいいのかわからない。
「慣性の法則って知ってる?動いているものは動き続けようとする力が働くし、止まっているものは止まり続けようとする力が働くんだ。」
「僕は今止まっているのか進んでいるのかもわからない。なんなら後ろ向きに突っ走っている恐れさえある。」
「僕はね、人というのはぐるぐる回っていると思うんだ。イメージで言うと、螺旋階段のような。最初はいいなと思ったけど、しばらくしたらダサいと感じてきて、結局そんなところも含めて良いと思える。これは一周まわったということだ。前は詩を書きたいと思っていたのに今は書きたくないっていうのは、半周回っただけのことで、また半周したら詩は書きたくなるし、ここから一周したら、やっぱり詩は書きたくないんだ。」
「前に詠んだ詩は嘘じゃなかったんだね。」
「まぁ、そうとも言えるかもしれない。僕は今、詩を書かないからね。でも、回っても回っても同じ場所には戻ってこないんだ。螺旋階段みたいに、どんどん深いところに進んでいく。
地球は回っているからね、時間の経過は地球の自転、時計の針、回る寿司、回って回って進んでゆくんだ。でも、一周したら、もう同じ顔なんてないんだよ。進むというのは回るということなんだ。
人は真っ直ぐ、前に、進んでいると思う?遠く彼方へ向かって。でも本当は下に向かって、深みに向かってぐるぐる回っている、そう言う方が近いのかもしれないよ。
だから人の話を聞く時は、その人がどれだけ遠くまでそれについて考えたかを聞くより、その考えは何周目か、それとも水深何メートルなのかと僕は聞きたい。もし君が僕と同じ深さにいるのなら、出会ったばかりの僕との間に、共有してきた時間など必要ないんだ。初めて会ったとは思えないと君が前に言ったのは、僕と君が同じ深みにいて、今は同じ場所で泳いでいるからなんだと思ってる。」
鈍感な群れの仲間に馴染んだあたりから年齢を時給換算するような自己満な人生です
お風呂に入る前の鏡に移るアルコールまみれの人間を好んだ訳では無い
うるさい静けさに耳を傾けたら美しいピアノの音が聞こえてくる
大学の学食横のテーブル席で友人と座っている。そこで風の噂にはなっていた友人の恋愛相談を直接聞く。僕は特に何も言わない。何を言ったって、底を切った言い訳は詰め替えられるだけだ。
本当に大事なことは目を見て言えというけど、僕の場合はむしろ逆だと思ってくれた方がいい。本当に伝えたいこと、本当に思っていることはあまりにも単純で、それだからあまりにもストレートで、そんなとき僕の心は今まで覆っていたベール的なものも、守ってきたバリア的なものも完全に取り除いた無防備な状態だから、それを聞いた人が何を思うかなんて怖くて直視できないし、もしも僕の期待外れだったら、剥き出しの心がひどく傷ついてしまいそうだし、そんなこと、人の目を見て言えたものじゃないね。何より、そんな代物をそのまま受け取れる人がどれほどいるのか。
ちょうどお昼時で人が多くなってきた。そこに1人の男子学生がパン屋の方から歩いてきた。なんとなく視線がいく。その男は壁のそばに立ったままこちら側をむいて先ほど買ったのであろうパンをかじり始めた。なぜ座らないのか、なぜこっちをむいているのか、知らない。ただ、どうしても視線を外せない。友人にも男にも、誰にも気づかれないようにその光景を捉え続ける。けれども男は誰かにみられているなどという発想は微塵もないのだろう。こんなにも直視しているというのに、男は夢中になってパンを貪っている。行儀が悪い、汚い、そんな次元を超えて、僕はその男に身惚れていたのだ。
“他者を可愛いと思うのは自己と一致させているからである。逆に、誰かを可愛いと感じるならば、それは自分がその人のどこかに自分を見出しているのである。
「善の研究」の一節が勝手に思い出される。僕は彼の中にどの自分を見出しているのだろうか・・・?
“美しいものに触れることと、大いなるものを信じることとは同質の経験である。かかる直覚は独り高尚なる芸術の場合のみではなく、全て我々の熟練せる行動においても見るところの極めて普通の現象である。”
“誰だとてものは見てはいる。だが全ての者は同じようには見ない。それ故同じものを見ていない。ここで見方に深きものと浅きものとが生まれ、見られるものも正しきものと誤れるものとに分かれる。見ても見誤れば見ないにも等しい。
ただ、追求する過程で自分の持つ経験や言葉などのツールを使うのは修行の途中では有り得ることである。しかし大事なのは、真理の追求である。”
疲れ切ったボロボロの袖を男と定義して
本格派なだらしなさは自分を見ているようで愛しいとする
裏起毛みたいな優しさを連れて散歩する日
いつもの定食屋さんに1人で行ってみる。いつもは座らないカウンター席。40代くらいの若干若そうな店主が話しかけてくる。
「若いっていいよな。可能性しかねぇ。」
「はい、”可能性しか”ないんです。」
これが皮肉として伝わっているのかどうかわからないが、僕は事実として思っていることをそのまま伝えた。
「身長はもう止まっているし、人間が大人になるにつれて伴う身体の変化はもうほとんど通ってきました。あとはレントゲン写真に映っていた、真横に生えた下顎の親知らず2本が、気がついたら歯茎に食い込んで姿を現しつつあるということでしか、僕は実感できないんです、大人になっているって。」
「そんな親知らずさっさとぬいちまいな。あとで厄介になるぜ。」
伝わっているかどうかの前に、この大人はそんなに人の話を聞かないようだ。
「それが、神経に近くて抜けないんですよ。」
「大変だな。」と言ってみたもののつまらない話題だったようで話題はすり替えられる。
「それより、日本なんかさっさと出ちまいな。もう日本は終わりだ。あいつも言ってたぞ、なんて言ったけな、あのユーチューバー。あいつはマイルで世界中を飛び回っているんだ。俺はいつもそいつの動画を見ている。ほら見てみろ、すげえよな。お前も海外で焼き鳥屋とかはじめろよ。絶対売れっから。」
「それなら僕、ユーチューバー始めようかな。」
もう話を聞くのも疲れたし、適当に話を切り上げたかった。もちろん僕はユーチューバーなんて興味ない。
「そらぁ普通の人がやったってしょうがねぇよ。」
変な空気が流れる。多分、お互いに嫌な気がした。
麺つゆを間違えてお味噌汁のお椀に入れてしまったおじいちゃん店員が誰にも聞こえないくらいの声で「あああぁぁおばかさん・・・」というのが聞こえてくる。
注文されたものが運ばれてきた。程なくして、僕は衝動に近く、茶碗を掻き込んだ。見せつけてやりたかった。これが、人間の汚さだ。
僕が勘定を済ませている時に店主が出てきて「ま、今からだよな」と付け加えられた。
有り余るエネルギーを携えて
逃げ込んだ公園には月並みな月が待っている
どんなに行っても距離は一歩も縮まらず
満たされないのはその空気のせいで
それを吸っては自分のものにできると想像する
「なんだか、何もしていないんだけど、そのことがまさにとんでもないことをしてしまっているような気がして、眠れないんだ。夜は嫌いだ。」
「夜は人を不安にさせるためにあるんだよ。」
僕は電話越しの静寂を聞いている。
「だからこそ人は夜になると愛を確かめようとするし、夜はそれを見たかっただけなのかもしれないね。」
「それはなんの気休めにもならない。」
「ただ詩を詠んでみただけだよ。」
「みんな適切な言葉を欲しがってる。あまりにも間違った言葉が当て嵌められていることが多いし、逆にまだ知らない言葉が多すぎる。僕にはまだ知らないことが多すぎるんだ。」
「今日は星が綺麗だ。星は好き?」
あまりに対照的な気の持ちように戸惑いながら「綺麗だとは思います」と僕は答える。
「流れ星って0.1秒とかで流れていくでしょ。でも1秒前まで自分のことで忙しくして、0.1秒の間だけ空を仰いだって流れ星を見ることなんてできないんだ。流れ星を見るのに必要な時間は当たり前だけど0.1秒では足りないんだ。わかるよね?」
「でも、すでに空には満天の星が広がっているんだ。なぜ人はそれでも流れ星に執着するのか僕にはわからない。まだ見たことがないのもあるけど。」
「大事なものを失わずして、これから得るはずのものは一生忘れられないものになりうるのかという話」
彼はいつも重要な話をしようとするとはっきりと言わないきらいがある。
「何でもない日に見る星も十分綺麗だけど、『あの時のあの流れ星』と説明できるほどに人にとって流れ星をみるという経験は一生忘れられない思い出になる。流れ星が特別なのは、それを見るのにそれなりの時間が必要だからというのは当たり前かもしれないけど、大事なことは時間をかけるからこそ大事になるんだと言われるとそれは僕にとっては結構な発見だ。しかし次に僕は、そもそもなぜ“流れ星”を見つけるのにはそんなに時間が必要なんだ?と疑問に思う。犠牲なくして価値あるものは得られないのか?」
僕は黙って聞く。
「まぁ今に始まった訳ではないけど変な話、時間というのは“重さ”を知るためにあると思うんだよ。重要なものを得るには重要なものを失う必要があると先に言ったけど、それは“重要”という言葉どおり、重さが要るということなんだと思うんだ。やっぱり重要なことを知るには時間が要るようだよ。どうせ寝れないなら流れ星でも探していたらいいんじゃないかな。見つけたときの君は、もう元の君ではないはずだ。」
「ありがとう。そうするよ。」
「うん、おやすみなさい。」
水面に映るひとを覗き見ていたら溺れた川
流れ着いた君の微笑みが溢れる海の味はあまりに甘くて
生きたまま過ぎていく今を嫌ったぼく
今日は何をするでもない。ただ例の如く2人で芝生の上に座っている。
「嫌なことを言われたらそんな自分が恥ずかしくなって相手を傷つけようとする余裕もないけどね。」
「恥ずかしいからこそそれを隠そうとして相手を傷つける人っていっぱいいるんだよ。」
「そんな人と僕が同じ世界で生きているなんて不公平だよ。」
「正義は正義か」と誰に問うてるようでもなく、瀬尾さんはただその場に言葉を残していく。
「瀬尾さんって変わっていると思う。」
「君も相当変わっているよ。」
「僕とはその、質的に違うんだ。」
「君と違って僕は普通の人なんだよ。認めたくないけど。僕はほかの人とは違うよ、ただ君が期待しているような人ではないってだけだ。ある意味僕は、君に憧れているんだ。」
そう言って瀬尾さんは上体を倒して芝生の上に寝そべり、こうして彼は僕の視界の外に行く。彼と僕の視線はもう合わない。
「ジェンダーだとか、発達障害だとか、コミュ障だとか、そういう言葉にはある意味うんざりしているんだ。なぜなら僕は普通の人だから。僕からしたらそういった言葉が羨ましいと思う。心地良さを感じる。ただ、それらの言葉は僕のためにあるものではないんだ。
自分の中の当たり前を異常と知ることの難しさもあるけど、普通の人しか感じない苦しさがある。普通の人なのにどこかおかしい。それは理由のない狂気で、捉えようのない異物・・・。それを普通の人は対処できなくて、もがいている。ただでさえ普通が平凡と捉えられて、マイノリティが特別みたいな言い方が嫌だけれど、それ以上に、僕にはもう逃げ道が残されていないということに静かに絶望する。僕はもう自分の中のおかしさを解放してやることはできないのかもしれない。名前が無いから、自分の中の狂気さえ飼い慣らせないんだ。そんなやるせなさを据えて今日も普通に生きているんだよ。」
「それでも、僕はいつかあなたみたいになりたいと思う。」
「大人とて、大した人ではないんだ。毛布のなか寝ぼけながら温かくなっている部分を探すように、今日もなにも感じない、感じたくないままで心地いいところを無意識に探しているんだ。喋らないアラームで目を覚まして、湯気で曜日感覚を失うような日々だ。僕はいつの間にか、じわじわと、真っ赤に染まりつつある。僕にはそれが怖いんだ。」
僕は君みたいな青さが欲しい
青いキスは未来を確かめるようなものではなくて
唇を奪われた君が驚いた顔の深い海の底では青いグラデーションが広がった
ブラインダー越しの雨はことさらに愉快な響きで
決してこの部屋には入りきらない世界がそこに在ることを証明するための科学
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